短文
(1)
以下は、プール管理会社のホームページに掲載されたお知らせである。

20XX年7月吉日


お客様各位

市内温水プールさくら管理会社


花火大会に係る営業時間変更のお知らせ
 いつゃ市内温水プールをご利用いただきまして、誠にありがとうございます。
 さて、 毎年恒例の夏まつり花火大会が8月10日(土) に予定されており、大会が開催される場合、午後5時以降は温水プールさくらの駐車場が車両進入禁止区域になります。
 つきましては、雨天などによる大会順延にも即対応できるよう、開催日及び予備日の二日間の営業時間を午前10時より午後5時までと変更させていただきます。
 お客様には大変ご不便をおかけいたしますが、何卒ご理解ご協力をお願い申し上げまする。

(46)このお知らせで最も伝えたいことは何か。

短文
(2)
 ものが豊かになった。子どものころをふり返ってみると、食事がぜいたくになったことに驚いてしまう。(中略)
 現在はまさに飽食の時代である。世界中の珍味、美味が町中にあふれていると言っていいだろう。「グルメ」志向の人たちが、あちらこちらのレストランをまわって味比べをしている。昔の父親は妻子に「不自由なく食わせてやっている」というだけで威張っていたものだが、今ではそれだけでは父親の役割を果たしている、とは言えなくなってきた。

(河合隼雄『河合隼雄の幸福論』PHP研究所による)

(47)それだけでは父親の役割を果たしている、とは言えなくなってきた。とはどのような意味か。

短文
(3)
 二宮金次郎の人生観に、「積小為大」(注)という言葉がある。(中略)「自分の歴史観」を形づくるためには、この「積小為大」の考え方が大切だ。つまり歴史観というのは、歴史の中に日常を感じ、同時にそれを自分の血肉とする細片の積み重ねなのだ。そのためには、まず、「歴史を距離を置いて見るのではなく、自分の血肉とする親近感」が必要だ。つまり、歴史は“他人事”ではなく、“わが事”なのである。いうなれば、歴史の中に自分が同化し、歴史上の人物の苦しみや悲しみを共感し、体感し、それをわが事として「では、どうするか」ということを、歴史上の相手(歴史上の人物)とともに考え抜くという姿勢だ。

(童門冬二『なせぜ一流ほど歴史を学ぶのか』青春出版社による)


(注)積小為大:小さなことを積み重ねて、はじめて大きな事を成せる

(48)筆者が述べている「歴史観」に基づいた行動はどれか。

短文
(注) 天守閣 : 日本の戦国時代以降に建てられた城の中でひときわ高く築かれた象徴的な建造物

(49)筆者が興奮した理由は何か。

中文
(1)
 四十にして惑わず、という言葉がある。男の厄年(注)は四十二だ。別にこれらに影響されなくても、四十という年齢は、男の人生にとって、幸、不幸を決める節目であると思えてならない。
 (中略)
 四十代の男が、もし不幸であるとすれば、それは自分が意図じてきたことが、四十代に入っても実現しないからである。世間でいう、成功者不成功者の分類とはちがう。職業や地位がどうあろうと、幸、不幸には関係ない。自分がしたいと思ってきたことを、満足いく状態でしつづける立場をもてた男は、世間の評判にかかわりなく幸福であるはずだ。
 家庭の中で自分の意志の有無が大きく影響する主婦とちがって、社会的人間である男の場合は、思うことをできる立場につくことは、大変に重要な問題になかってくる。これがもてない男は、趣味や副業に熱心になる人が多いが、それでもかまわない。週末だけの幸福も、立派な幸福である。
 困るのは、好きで選んだ道で、このような立場をもてなかった男である。この種の男の四十代は、それこそ厄代である。知的職業人にこの種の不幸な人が多いのは、彼らに、仕事は自分の意志で選んだという自負があり、これがまた不幸に輪をかけるからである。

(塩野七生『男たちへフツウの男をフツウでない男にするための54章』文藝春秋による)


(注)厄年・災いにあいやすい年齢

(50)四十歳について、筆者はどのように考えているか。

(51)筆者によると、四十代の男が不幸であるとすれば、それはなぜか。

(52)筆者によると、最も不幸な人とはどんな人か。

中文
(2)
 戦後、イギリスから京都大学へすぐれた物理学者がやってきた。招かれたのかもしれない。この人は、珍しく、日本語が堪能で、日本では、日本人研究者の英語論文の英語を助けることを行なっていた。のち、世界的学者になる人である。
 この人が、日本物理学会の学会誌に、「訳せない“であろう”」というエッセイを発表し、日本中の学者、研究者をふるえ上がらせた。
 日本人の書く論文には、たえまず、“であろう”ということばが出てくる。物理学のような学問の論文には不適当である。英語に訳すことはできない、という、いわば告発であった。
 おどろいたのは、日本の学者、研究者である。なんということなしに、使ってきた語尾である。“である”としては、いかにも威張っているようで、おもしろくない。.ベールをかけて(注1)“であろう”とすれば、ずっとおだやかになる。自信がなくて、ボカして(注2)いるのではなく、やわらかな感じになるのである、などと考えた人もあったであろうが、学界はパニックにおちいり、“であろう”という表現はピタリと止まった。
 伝えきいたほかの科学部門の人たちも、“であろう”を封鎖してしまった。科学における“であろう”は消滅した、というわけである。

(外山滋比古『伝達の整理学』人筑摩書房による)


(注1)ベールをかける:はっきりとわからないように覆い崩す
(注2)ボカす:意味や内容をはっきり言わずぼんやりさせる

(53)筆者によると、イギリスから来た物理学者はどんな人か。

(54)おどろいたのは、日本の学者、研究者であるとあるが、なぜ驚いたのか。

(55)日本の研究者たちと “であろう” ということばの関係について、筆者はどのように述べているか。

中文
(3)
 論理は、いわゆる理系人間の利点、アドバンテージだと言えるのかもしれませんが、新製品の発売を決定する社内会議で、エンジニアが論理的にポイントをおさえた完璧なプレゼンをしたとしても、会議の参加者の心を動かすことができず、製品化のゴーサイン(注1)が出なかった、などという話がよくあります。
 人間はもともと恐怖や喜びなどの感情によって生き残りを図ってきた動物なので、感情的にしっくり来ないものを直感的に避けてしまう傾向があるのです。そのため、エンジニアのプレゼンに対して、「話の筋も通っているし、なるほどもっともだ」と頭では理解、納得しても、もう一方に「コレ、なんとなく買う気にならないんだよね」という心の声があると、多くの人は最後にはそちらを優先してしまいます。
 しかし、この「なんとなく」こそ、まさに感情と論理の狭間にあるもので、それこそが会議で究明しなくてはならないものであるはずです。
 たとえば、「なんとなく」の正体が、「試作品の色が気にくわなかった」だけだと分かれば、代わりの色を探せばよいだけの話で、せっかくの企画を没にしてはもったいないどころではありません。一方で、その製品は子供が乱暴に扱う可能性が高いため、会議の参加者が無意識下で「それにしてはヤワだなあ」ということを感じていたのなら、使用素材や設計をじっくり見直す必要があるはずです。

(竹内薫『文系のための理数センス養成講座』新潮社による)


(注1) ゴーサイン: 計画や企画の実行の許可を表す指示
(注2) ヤワ: 弱々しいこと

(56)筆者の考えに合うのはどれか。

(57)人間はもともと恐怖や喜びなどの感情によって生き残りを図ってきた動物とあるが、どういう意味か。

(58)「なんとなく」について、筆者はどのように考えているか。

長文
(1) 
 占いは若いころだけではなく、歳をとっても気になるものだ。二十代のころは、占いのページを見ているととても楽しかった。特に恋愛運はむさぼる(注1)ように読み、
 「あなたを密かに想っている男性がそばにいます」
などと書いてあったなら、
 「うふふ、誰かしら。あの人かしら、この人かしら。まさか彼では………………」
と憎からず(注2)思っている男性の顔を思い浮かべ、けけけと笑っていた。それと同時に嫌いな男性を思い出しては、まさかあいつではあるまいなと、気分がちょっと暗くなったりもした。今から思えば、あまりに間抜けで恥ずかしい。
 「アホか、あんたは」
との①過去の自分に対してあきれるばかりだ。
 アホな二十代から三十有余年、五十代の半ばを過ぎると、恋愛運などまったく興味がなくなり、健康でいられるかとか、周囲に不幸は起きないかとか、現実的な問題ばかりが気になる。
 (中略) 占いを見ながら、胸がわくわくする感覚はなくなった。とはいえ、雑誌などで、占いのページを目にすると、やはりどんなことが書いてあるのかと、気になって見てしまうのだ。
 先日、手にした雑誌の占いのページには、今年一年のラッキーアイテムが書いてあった。他の生まれ月の欄を見ると、レースのハンカチ、黄色の革財布、文庫本といった、いかにもラッキーアイテムにふさわしいものが挙げられている。それを持っていれば、幸運を呼び込めるというわけだ。
「いったい私は何かしら」
と久しぶりにわくわくしながら、自分の生まれ月を見てみたら、なんとそこには「太鼓のバチ(注3)」と書いてあるではないか。
 「えっ、太鼓のバチ?」
雑誌を手にしたまま、②呆然としてしまった
 レースのハンカチ、財布、文庫本ならば、いつもバッグに入れて携帯できるが、だいたい太鼓のバチはバッグに入るのか? どこで売っているのかも分からないし、万が一、入手してバッグに入れていたとしても、緊急事態で荷物検査をされた際に、バッグからそんなものがでてきたら、いちばんに怪しまれるではないか。
 友だちと会ったときに、これが私のラッキーアイテムと、バッグから太鼓のバチ(注4)を出して、笑いをとりたい気もするが、苦笑されるのがオチであろう。その結果、今年の私はラッキーアイテムなしではあるが、そんなものがなくても、無事に暮らしていけるわいと、鼻息を荒くしているのである。

(群ようこ『まあまあの日々』 KADOKAWAによる)


(注1) むさぼる:満足することなく欲しがること
(注2) 憎からず: 憎くない。好きである
(注3) バチ: 太鼓をたたくための棒状の道具
(注4) オチ: 笑い話など物語の結末

(59)①過去の自分に対してあきれるばかりなのはなぜか。

(60)筆者は五十代の半ばを過ぎた自分についてどのように述べているか。

(61)②呆然としてしまった筆者の気持ちとして最もふさわしいのはどれか。

(62)筆者はラッキーアイテムについてどのように考えているか。

統合理解
A
 学校の部活動における体罰は、全面的に禁止すべきだと思います。私は指導者の体罰が普通だった世代ですし、体罰によって忍耐力をつけさせるべきだという主張もわかります。しかし、スポーツをする意義は別のところにあるのではないでしょうか。自分の感情もコントロールできない人に指導する資格はないでしょう。体罰は、未熟な指導者が一方的に暴力をふるうことです。十分な指導力があれば、言葉のみで解決できるはずです。私は心的外傷を負った子どもを診察した経験がありますが、体罰は、受けた場合はもちろん、目撃しただけでも、多かれ少なかれ精神的なショックになります。体罰を容認することは、将来、DVのような暴力を容認する態度を持つ成人を作ることにつながりかねません。
B
 体罰は、どんな場面であっても容認されるべきではないと考えます。確かに自分たちが中高生の頃は、体罰は当たり前で、水分補給もさせてもらえませんでした。間違ったスポーツ医学や精神論がはびこっていたのです。しかし、スポーツにおける考え方は、驚くほど進化しています。実際、体罰を与えていないにもかかわらず、全国大会の常連になっている学校はたくさんあります。指導者たちは、最新
の指導の仕方を学ぶべきです。それに、体罰をすると、生徒はどうすれば指導者から暴力を受けなくなるかということばかり考えるようになります。そうなると、失敗を恐れ、新しいことに挑戦しにくくなり、選手としての成長を阻むことにつながると思います。

(63)体罰をする指導者について、AとBはどのように述べているか。

(64)生徒が体罰を受けた場合の影響について、AとBはどのように述べているか。

主張理解
 テーマ (研究の主題)を決めることは、すべての学問研究の出発点になります。現代史も変わるところはありません。まずテーマを「決める」という研究者自身の①主体的な選択がなによりも大切です。当然のように思われるかもしれませんが、実際には、他律的(注)または受動的に決められることが稀ではないのです。
 現代史研究では、他のすべての学問と同じく、あるいはそれ以上に、精神の集中と持続とが求められますが、この要求を満たすためには、テーマが熟慮の末に自分自身の責任で(研究が失敗に終わるリスクを覚悟することを含めて) 決定されなければなりません。(中略)
 ②テーマを決めないで研究に着手することは、行先を決めないで旅にでるのと同じです。あてのないぶらり旅も気分転換になりますから、無意味とはいえません。新しい自己発見の機会となることがありますし、素晴らしい出会いがあるかもしれません。旅行社お手盛り(注2)のパック旅行よりも、ひとり旅のほうが充実感を味わえると考えるひとは多いでしょう。テーマを決めないで文献や史料をよみあさることも、あながち無駄とはいえない知的散策です。たまたまよんだ史料が、面白いテーマを発見する機縁(注3)となる幸運もありえます。ひとりの史料探検のほうがパック旅行まがいの「共同研究」よりも実りが多い、といえるかもしれません。(中略)
 けれども一般的に、歴史研究にとって、テーマの決定は不可欠の前提です。テーマを決めないままの史料探索は、これぞというテーマを発見する過程だからこそ意味があるのです。テーマとは、歴史家がいかなる問題を解くために過去の一定の出来事を研究するか、という研究課題の設定です。(中略)
 歴史は暗記物で知的創造とは無縁の、過去の出来事を記憶し整理する作業にすぎないという、歴史と編年史とを同一視する見方からしますと、③この意味でのテーマの選択とか課題の設定とかは、さして重要でない、むしろ仕事の邪魔になるとさえいうことができます。歴史についてのこのような偏見はいまも根強く残っていますので繰り返すのですが、歴史も新たに提起された問題(事実ではなく問題)を一定の方法で解きほぐすことを目指す創造的かつ想像的な営みであることは、他の学問と違うところはありません。テーマの選択とは、いかなる過去の出来事を研究するかではなく、過去の出来事を、なにを目的として、あるいはどんな問題を解明しようとして研究するか、という問題の設定を指示する行為にほかなりません。

(渓内謙『現代史を学ぶ』岩波書店による)


(注1)他律:自分の意志ではなく、他人の意志や命令によって行動すること
(注2) お手盛り: ここでは、旅行社の都合のよいように決められた
(注3) 機縁:きっかけ

(65)①主体的な選択がなによりも大切ですとあるが、理由は何か。

(66) ②テーマを決めないで研究に着手することについて筆者の考えに合うのはどれか。

(67)③この意味とは何を指すか。

(68)この文章で筆者が最も言いたいことは何か。

情報検索

(69)日本語学校に通う21歳のタンさんは、クレジットカードを作りたい。50万円以上の買い物はしない。どのカードに申し込むのが一番よいか。

(70)35歳のコウさんは、既に入会済みである。去年は、5月に一度だけクレジットカードを使って、150万円の大きな買い物をした。今年の度年会費はいくらになるか。